当時のドイツは第一次世界大戦の敗戦や世界大恐慌の影響で、経済は酷く、国内は爆発寸前のストレスフルな状態でした。
ドイツ国民の、ドイツ国家の自由のために、自分たちを苦しめているユダヤ人を追い出してドイツを良くしよう。
“WE MUST FREE THE GERMAN NATION OF POLES, RUSSIANS, JEWS AND GYPSIES”
我々ドイツ国家は、ポーランド、ロシア、ユダヤ人、ジプシーから自由になる必要がある。
アウシュヴィッツ強制収容所に行ってきました。
アウシュビッツ強制収容所(Auschwitz)とは?
ヒトラー率いるナチス党政権下のドイツが行ったホロコーストの象徴と言われるアウシュヴィッツ強制収容所。
1940~1945年にかけて現在のポーランド南部オシフィエンチム市郊外につくられた、強制的な収容が可能な施設です。
元々ゲットーと呼ばれる地区にユダヤ人を収容していたのですが、収容人数が増え過ぎたため、アウシュヴィッツをつくり強制的に移送しました。
収容されていたのは、ヨーロッパ各地からユダヤ人、ポーランド人、政治犯、ロマ人(ジプシー)、同性愛者、障がい者など。
収容されたと言われている130万人のうち、約90%はユダヤ人です。
アウシュヴィッツへの行き方と日本語ガイド申し込み方法
- 2014年4月1日~10月31日はガイドツアーに参加する必要がある(30分ごとにある)※情報が古くてすみません。
- 上記期間以外は、個人での見学が可能(入場料無料)
- クラクフのホステルや旅行会社で、バス行き帰り付き英語ツアーを申し込むこともできる(110PLN/3490円程度)
【日本語ガイドを希望の場合】※ お勧めです。私の時は1人40PLN/1270円。
1)直接メールで事前確認をして予約(日本語ガイド:中谷 剛さん / nakatani@wp.pl)
2)8:25 クラクフバスターミナルよりOswiecim行きバスに乗る(片道14PLN/444円)
3)10:00 アウシュヴィッツ着、博物館入り口の集合場所へ。
4)10:30 約3~4時間の第一/第二強制収容所ツアー開始。
5)18:30 バスで約1時間40分~2時間、クラクフ駅前バスターミナル到着。
入り口でイヤホンを受け取って、ツアー開始です。イヤホンから、ガイドの中谷さんの声が聞こえる仕組み。
アウシュヴィッツ第一強制収容所
“ARBEIT MACHT FREI” 働けば自由になる。
ゲートをくぐって、アウシュヴィッツ第一強制収容所からまわって行きます。
ゲートも道も全て被収容者が作ったもの。Bが逆さまになっているのは、当時このゲートを作った被収容者の、せめてもの抵抗の現れだという証言があります。
しかし、他のスローガンもこのようにBが逆さまになっているものがあり、当時の流行のデザインなのではという見解が最近では強いようです。
ゲートの近くには、監視塔がありました。
きちんと並べられた収容所。ひとつの棟に約150人が収容されたとか。
今は被収容者の収容所の一部が、博物館になっているようです。
あたりを見渡してみると、温かみのあるレンガ造りの建物の中に・・・
高いデザイン性を見つけることができます。
きちんと並べて植えられた木は、植えられたときは背の低かったけれども、今ではこの高さです。
その他に防火水槽などもあり、ドイツの文化水準の高さと、この施設で行われてきたこととのギャップに、かなりの違和感を感じました。
当時の様子を写した写真がありました。
これは、被収容者が音楽を演奏する様子を撮ったもので、外部向けのカモフラージュ写真だそうです。
各地から列車で運ばれてくる人々の様子です。
イスも窓も何もない狭いひとつの箱の中に、立ちながら乗る約70人と70名分の荷物。
やっとたどり着き降りた時には疲れきっていて、もう指示に従わざるを得なかったと言います。
到着すると、持ってきた荷物は、このように全て「預かられ」ます。
安心させるために、名前や出身地を鞄にかかせていたみたいですが、鞄は二度と持ち主の元へと戻ってくることはありません。
そして列をつくり、ドイツ軍の医者が働ける者と働けない者を選別します。
「選別」をし、右を差すその指の先には、ガス室があります。
女性や子ども、老人など、約75%がここでガス室に送られました。収容所に空きがなければ、働けるものでも右を差されました。
これらのほとんどの写真は、ドイツ軍の記録用に撮られていたようですが、こちらの写真は被収容者が盗み撮った写真です。
よくわからなかったけれども、外で衣服を脱ぎガス室へ向かう女性のようです。
ガス室です。中は撮影は控えるようにとのことでしたので写真はありませんが、1度に600人ほどいれられたそうです。
薄暗い室内の壁は剥がれて白黒していて、壁に雨みたいな模様が見えました。
「シャワーを浴びるから」と言われ、中に入れられます。
脱衣所があり服を脱ぎ進むと、水道がある部屋に入ります。しかし、水道からは水は出ず・・・
代わりに天井の穴から、このガス缶が投入されたのです。
害虫駆除用のこの1缶は、15~20分で150人殺せるもの。遺体を隣の部屋の焼却炉へ運び焼却すると、煙突から煙が上がります。
これらはすべて、被収容者が行っていました。
直接手を下さないことで、ドイツ軍の精神的負担を減らすようにしていたのです。
美術館の中には、食器など、押収されたものたちの展示もたくさんありました。
並べられた中には、ニベアクリームもありました。
これ全部が、子ども用の靴。
身なりを整えるためのクシも。
ユダヤ人の模様布や・・・
大量の眼鏡。
「新しい生活を信じてこれら全財産を持ってきていたわけでは、決してないはず。でも他に、どこにも行くところもない。」
その全財産は、このようにただの”GOLD”や”SILVER”として市場に出ます。
働けると選別された被収容者は、丸刈りにされ、8,500kgもの被収容者の髪で作った絨毯は、ただの”絨毯”として売られました。
そしてこのような服を着せ、番号を体に刻印され・・・
写真を撮れば、「立派な犯罪者」になります。
中には、政治犯として捕えられた英雄たちもいたそうですが、どんな英雄もこのような格好になれば、不思議と犯罪者に見えるもの。
(一番下に記されている年月が、アウシュヴィッツに収容されていた期間)
2~3ヶ月しか生きられないこの中でわざわざ写真を撮ったのは、ここが「犯罪者を収容する施設」だったから。それだけのことでした。
英雄と言われる人たち、脱走を謀る人たちは、朝の号令の時に吊るされて、公開処刑されました。
双子やジプシーの子どもたちは、「調査」目的で医療実験の対象になりました。
男女は、電流の流れる柵で分けられ・・・
ここには、被収容者が協力出来ないようなシステムがあったのです。
例えば、管理するのは、ドイツ軍ではなく、ユダヤ人などの被収容者。
食事を分配しているのも、被収容者。
同じ被収容者なのに、ひとりだけ太っているのが分かりますね。“食事係だから”だそうです。
これがアウシュヴィッツ内の、一日の食事。
被収容者はみるみると痩せ、栄養失調が原因でなくなる方もいたそうです。
政治犯、ジプシー、障がい者、ポーランド人などで、服も色分けされ区別されました。
同じ被収容者同士で、このように立場の違いがある。
丸坊主にされる中、なぜか丸坊主にされない被収容者がいる。
スパイかもしれない。
被収容者同士で疑心暗鬼が生まれ、そして争う。
生き抜くためには、いい立場につかなければならない。
リラックスした状態で笑いながら歩く、ドイツ軍の姿。
そのような被収容者同士がやりあうシステムが、直接手を下さなくてもいいシステムが、ドイツ軍の精神を支えていたのでしょう。
所長ルドルフ・フランツ・フェルディナント・ヘスは、アウシュビッツ強制収容所内に住んでいました。妻と、子ども5人と、平和に暮らしていたみたいです。
この家から300mと離れたところにガス室はあり、毎日あがる煙はこの家から見えるはず。
その所長はぜひここで処刑して欲しいとの運動、そして新しい法律の下、アウシュビッツ内のこの場所で絞首刑となりました。
これにて、第一強制収容所の見学は終了です。
アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ
続いて、アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウへと向かいました。
第一強制収容所から、バスで5~10分くらい離れた場所にあります。
アンネ・フランクも2ヶ月間収容されていたビルケナウ。中はじめじめしていて、湿っぽい匂いがしました。
小さな暖炉がありました。が、冬はマイナス20~30度になるので、寒さが原因でなくなった方もいるそうです。
トイレは、自由時間の1日2回のみ。シャワーは月1回。衛生状態はいいとは言えず、伝染病が流行っていたようです。
そんな中で、ドイツ語で柱に書かれていた、「整理整頓」「静粛に」などのスローガンに、また違和感・・・
ビルケナウのガス室は証拠隠滅のため、ダイナマイトで爆破されました。
当時、イギリスの空軍がこのガス室を撮影していました。世界はここがただの「収容所」ではないと気付いていました。
でも、ユダヤ人は国籍もなにもない、パスポートもない。
「歴史的に見ても、助けるのは、助けようと思うのは、難しかったのかもしれない。」
長い線路脇を時間をかけて、ゆっくりと、歩きました。
途中、中谷さんが、外交官として働いていた、杉原 千畝(すぎはら ちうね)さんの話もしてくださいました。
当時、彼はリトアニアの領事館に赴任しており、リトアニアから日本そしてアメリカに抜けるためのビザを大量に発行し、外務省からの了承のない中、約6,000人の避難民を救いました。異動命令が出て汽車が発車する直前までビザを書き続けていたそうです。
(彼の半生を描いた映画「杉原千畝 スギハラ チウネ」は、唐沢寿明さん主演で、2015年秋に全国で公開しました。)
色んな国から、ドイツから、イスラエルから、子どもからお年寄りまで、たくさんの方を見かけたな。あのイスラエルの高校生の集団は、学校の授業の一環で来たのかな。
背中にイスラエルの国旗を背負って、神妙な面持ちで、でも時に友達とふざけあいながら、私の横を通って行きました。
やっぱり、相変わらず「負の遺産」は苦手です。
*苦手な理由「泣きそうになったことを何度でも思い出したい」
この世界一周の中でアウシュヴィッツにも行こうと思っていましたが、さあ行くぞとポーランド入りする前からとても気が重く、ポーランドのクラクフに着いてからも今日行こう、明日行こうと、どんどん先送りになっていきました。
もういっそ、行かなくてもいいんじゃないか?
やることもなかったのでなんとなく見ておこうと思った、大好きなイタリア映画「LIFE IS BEAUTIFUL」を見た後に、そう思いました。
思ったけれども、それはそれで消化不良になるだろうから、ああ・・・行くかあ、と、無理矢理日本語ガイドツアーを予約したのです。これでもう、行くしかない。
すぐ忘れてしまうので、必死にメモを取りながら中谷さんの話を聞いていました。アウシュビッツやユダヤ人の歴史についても、ある程度調べてから向かいました。
もしかしたらあの映画を見た後だったから、泣きそうになるかもしれないと思ってました。
でも、そんなこと全然なかった。
他の日本人旅行者の方たちと一緒に、たぶん相当なしかめっ面だったと思うけれど、当時のままのこのでこぼこな道を歩きながら、上手く感じ取れてないなぁと思ったり。
こういったものを前にしても、人間が起こした残酷すぎる事実を知っても、それをどうやっても自分の世界とは全然結びつけられないことを、また再確認してしまったり。
映画ではあんなに泣き続けるのに、深く感情移入するのにね。
空だって、やけに広かったです。
仕方がないといえば仕方がないのだけれども、事実を知ることが大切だと割り切ってはいるけれども、また自分の冷めた部分を思い知らされて、なんていうか、やっぱりショックです。いつもこの繰り返し。
(被収容者が銃殺されていた死の壁には今でもたくさんの花と小石が)
だからこそ、実際にこの場に立った時にどう感じるのかが知りたくて、自分の中に目を向けました。
本当に目を凝らさなきゃ気付けないくらいのものだけど、見落とさないように、どんな小さなものでもいいから、マイナスな感情でもいいから、気付きたいなと。
みんなに続いて、最後尾を歩いていました。
EXITの文字を見て、ここから出て行く人々をみて、思わず立ち止まってしまいました。
そして、「出口」を自分の手で開けて帰りました。
最初にこのアウシュヴィッツへの反対の声を上げたのは、ドイツの女学生だったんだって。やけにそのことが強く残ったよ。
世界の事実をひとつでも多く、自分のものにできるようなりたい。
何か感じたい。何も感じない、も感じたい。
そうして、自分の中の「どうでもいい」を、一つずつ消していきたい。
世界一周を始める前に思ったそんなことを、再確認したのでした。
ここまで読んでくださって、受け取ってくださって、ありがとうございます。
あ、そうそう!
実は、ここで面白い出会いがあったのです!!!
次は、アウシュヴィッツを訪れた時の、もう一つのストーリーを書きますね。きっとブログ村ランキングから私のブログを読んでくれていた人は、びっくりすると思うな〜(*´∀`)
次は、嬉しかったこととともに。それでは、またね!
その他の過去に訪れた負の遺産記事も読んでみますか?
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